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スタッフブログblog

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一級建築士のひとりごと

2023/04/24

私の履歴 (1) 少年時代

 

 

 

設計リーダーの森井です。

 

いつもブログを見て頂いている人はわかると思いますが、現在毎日ブログを発信することにチャレンジしています。

3月12日から毎日投稿しています。

目的はコスモホームの設計として家づくりや建築の情報を確りお伝えしたいという事と、大切な家の設計を任せて頂けるように森井栄年は何を考えていて、どういう男かわかっていただきたい。

そういう事でプライベートな事も書いています。

 

 

今回は私をもっと知ってもらう内容です。どうして建築の設計の仕事を志したのか、どんな経験をしてきたのかなどを私の履歴として2回に分けて書きたいと思います。

 

森井の個人的な内容ですので、家づくりについての内容とは関係のない情報です。(笑) 

面白そうだと思う方は読んでください。

 

生まれ

 

1967年2歳 モノクロが時代を感じる。

 

私は三重県の中部地区の8000人程の小さい町に地元で生まれ育った両親から昭和40年、森井家の長男として生まれます。

父の職業は大工、中学卒業後に職に就き初めは家具の職人、建具屋、そして大工と自分の技術を高めていった人です。

母はものをはっきり言う人、セールスマンには引っかからないタイプ、肝が据わった人です。父親を立てる人で、父が帰るまで家族は食事ができませんし、一番風呂は必ず父でした。そんな両親にしっかりしつけられたおかげで、親に対しての反抗期はなかった気がします。私とふたつ違いの妹と両親の4人家族です。

 

 

小学生時代

 

小学生の私は山・川・谷、自然を駆け回りカブトムシ、ワラビにアケビとり、蓮華が一面の田んぼで寝転んだり、真っ赤できれいに咲いている彼岸花を片っ端から倒して無茶苦茶にしたり、昔のいい田舎で小学生時代をおくりました。

勉強の成績は、中の中の中、性格はすぐに涙が出てくる子供でした。からかわれてもそうだし、悔しくてそうで、感情がすぐに涙となります。

良く言うと優しい子ですが、気が小さくてひとりの行動は心細いそんな子供でした。

 

小学校3年くらい

 

 

妹の存在

ふたつ下に妹がいます。活発で勉強も良くできて小学校から児童会の会長をし、リレーはアンカーかなり目立ったリーダー的な妹でした。性格は私と変わった方が良かったのではないかと親や親戚に話のネタによくされました。

その時私は妹をうらやむ気持ちも、あせりもなく、自分は自分、別の事で褒められようと考えていました。それは自分の得意なところで頑張ろうと言う事でした。

 

 

ものづくりが好き~設計士への憧れ~

小学校のころからものを作ることが好きでした。図工の成績だけは、クラスで一番で交通安全ポスターや、火の用心のポスターなど賞を何度ももらった事があります。工作の日は家で半分作品を作っていくような図工の時間を楽しみにしている子供でした。

父の仕事関係から家の図面を見ることもあります。私は自分の部屋がほしいと思った時、自分の家の間取りと増築部分を書いて父に見せた事があります。小学生ながら家は90cmのグリット上に柱はあり、畳の組み合わせで家の大きさができている事も理解していました。誰に教わったわけでもありませんが空間をそのように見ることが既にできていたのだと思います。

父がある時、ひでとしは何になりたいと聞かれ、答えられずにいると父は、設計士はどうやと言うのです。 設計士ええかも....小学生の私の頭に残りました。

 

小学校5年生・・・剣道1級

 

 

中学生時代

中学生に入りクラブ活動のソフトテニスに熱中します。

中学2年の進路指導では建築の道に進もうと自分の意思で既に決めていました。

そして三重県立の工業高校建築科を希望します。その学校はソフトテニスで県の3校に入る強豪でしたのでテニスも高いレベルでやれると思ったわけです。第2希望も第3希望もなくその高校以外考えていませんでした。そして無事に希望の高校に入学ができます。

 

 

高校生時代

ソフトテニス部に入部します。想像以上に練習は厳しく休みはありません。休みはテスト中、夏休みラスト三日、正月の二日と三日だけでした。そんな厳しい練習を3年したのですがうまくなれませんでした。

4番手の前衛でしたので団体戦には出ることはできません。個人戦では三重県の代表選考のかかる試合で全てベスト8を決めるところで負けるいつもベスト16です。必死にやってきたのに結果が出ない、あと一回勝てばインターハイの力ですから弱いわけではなかったと思います。もうテニスは忘れたい。クラブ引退後テニスを辞めてしまします。

ですが得た事はたくさんありました。とてもいい先輩や同期に恵まれました。クラブ活動でOBや先輩との縦の関係と気配り、同期の部員との助け合いを学びます。

今の私の対人関係の考え方の基本はこの時期に形成されました。

 

 

高校3年の三重県大会 私(写真の左)は前衛、後衛の内田君

 

同期のメンバー(私は右から3番目)

 

17歳

 

 

 

進路

進路を決めなくてはならない時期になりました。就職を心配する父と叔父が三重県に本社のある有名自動車メーカーに入れるように動いてくれました。父は企業への就職をすすめましたが、私は自分しか作れないものを作りたいそこにやりがいを持って仕事をしたいと言います。父親が「まだ社会にも出ていないくせにおまえの考えは甘い。稼ぐと言う事がどんな大変であるかわかっていない」と説得されます。ですが私は断わってくれと言いました。建築デザインの夢を変えることはできませんでした。

そして私はインテリアデザインの専門学校を選び親に行かせてもらうように説得に入ります。もっとデザインを勉強したい気持ちと都会への憧れもあり、親と離れて暮らしてみたい気持もありました。そして名古屋の栄にあるデザインの専門学校のインテリア科に入学します。学費に仕送り私も親になった今だからわかることですが、やりたい事を応援してくれた両親に感謝です。

 

 

専門学校時代

名古屋の街は18歳の私にはとてもエネルギッシュで昼も夜も祭りのように人が集まっています。名古屋に来て何かいい事がおこりそう。・・・彼女も早くできるかなぁ・・・

希望を抱いた夢いっぱいのひとり住まいの生活がスタートしました。学校でデザインの勉強もしましたが、良く遊びもしました。平日は夕方から飲食店でバイト、土曜日は毎週ディスコに通う。高校時代の親とクラブにしばられた反動があり、荒れた生活の時もありましたが、学校にはちゃんと行っていましたのである意味メリハリのつけた生活だったと思います。

 

 

専門学校の進級制作 19歳

 

 

 

卒業制作のハプニング

2年になり卒業制作の時期に卒業できないミスをしてしまします。作品の締め切り時間を間違えて卒業できない事になってしまいました。その事を両親に伝えると「何をやっているんだ。もう名古屋から引き上げてこい」と言われます。私は親に申し訳ない事をしたと心から思います。ですがこのまま家には帰れません。そしてバイトで食いつなぎ1年後に卒業制作を提出します。この時に私に建築というものを教えてくれた人と知り合います。アトリエ系の設計事務所を立ち上げたばかりの方で初めてのスタッフとして私がバイトに入りました。41歳の一級建築士の所長と23歳の私です。そこから15年間私は番頭としてその事務所にお世話になります。

一年後卒業制作を出し今度は優秀賞を頂く事が出来ました。大きい達成感を味わいます。自分がやる気を出したらやれると自信がつきました。デザイン建築は、おもしろいこれを自分の一生の職業として必ず成功させる23歳の私の決意でした。

 

 

 

結婚

30歳の時に知り合った女性と1年後結婚します。交際中に彼女の父親が余命1年の癌である事がわかりました。お互い結婚する気持があるのなら早い方が良いと結婚を決めます。そして子供がすぐに授かり長男が生まれた2ヵ月後に父が亡くなりました。間に合ってよかった。家族には父の生まれ変わりのようであり悲しい家族の気持ちは救われました。

その二年後長女が生まれます。

 

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

明日投稿予定の私の履歴 (2)につづきます。

 

 

 

 

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いい家とは数値で測れるものだけではない。

 

 

 


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